本の特送便 梅書房 > > 教育鼎談 子どもたちの未来のために
978-4-907364-25-0 教育鼎談 子どもたちの未来のために | ||
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【内容】 未来の世代に、どのような教育を手渡すべきか― なぜ学校は変わらないのか、ゆとり教育で学力は低下したのか、不登校をなくすためには? 学びの現場、行政の現場で昭和・平成の教育と向き合った3人が、未来が求める教育を説く「開眼の書」。 |
【目次】 Ⅰ いつの時代もゆとりはつぶされてきた 単位制は高校を変えたか なぜ学校は変わらないのか 「丸投げ」か「自由」か 「ゆとりはよかった」という子どもたち 小学校の先生は総合学科に向いている ゆとり教育で学力は低下したのか 「ゆとり」とブルシット・ジョブ 伊那小詣で現象 アクティブ・ラーニングのマニュアル化? 不登校をなくすために大切なこと 教師にはフリーハンドを 大人を信じられない子どもたち いつの時代も「ゆとり」はつぶされてきた 教育とは太古的なシステムである Ⅱ 学校教育は缶詰工場ではない 学校以外は義務教育にあらず 私立校は廃止の予定だった? オルタナティブスクールの子どもは不登校扱い 大検はむずかしかった 高一の数Ⅰ必修問題 バイパスがあると学校に来なくなる? フィンランド騒動 大学の淘汰と文部行政 学校選択するなら一国二制度? 地域に高校が一つしかない子どものために 高等教育一〇年計画は失敗だったのか 大学進学率の頭打ち 高学歴一辺倒の終わり~進路の多様化 大学が専門教育機関に 誰が学校教育の理念を決めるのか 臨教審のパラドックス 教育基本法の精神にのっとる 消えたユニバーシティカウンシル 公設民営の学校 学校教育は缶詰工場ではない Ⅲ 学術は公共のもの 学術会議の任命拒否 学者と大学人は違う 学術は公共のもの 反知性主義の見分け方 「七人の侍」と「ワイルドスピード」 加速する自由権の侵害 公共の福祉と「考え、議論する道徳」 軍事研究と学術会議廃止論 手塚治虫と公共性 画一化か個性化か 新幹線授業と落ちこぼれ 吹きこぼれの子どもの学び 学校はお店ではない Ⅳ 自由化のもとで起きていること 教育と市場原理 格付けと多様性は共存できない 評価のための評価 スケープゴートになった大学 日本版ディグリー・ミル 看護学校と看護学部 医学教育と生涯学習 多様な進路を作る 医者になった大リーガー ブルシット・ジョブとエッセンシャル・ワーク 認可寸前だった森友学園 加計学園の真相 新設薬学部はどうなったか 合併特例債というからくり Ⅴ 学校を中心に未来を描く 令和の新合併論 高校を自治体の核にする オープンな学校へ 地域で学校を見守る 廃校を決めるのは誰か オンライン講義の利点 共同体は時間を超える 短期的な株式会社モデル 方言教育の変遷 教科書採択と地方分権 戦後新制高校が目指したもの 外国語は英語以外でもいい なぜ教育への公助を嫌うのか 「子どもたちをよろしく」 コロナ下の子ども政策 厚労省の学習支援 子どもの好きにさせればいいじゃない 子どもを公助で支える 高校無償化と学習権の保障 子どもに休息を、学校に余白を |
【おすすめ】 まえがき 内田樹 みなさん、こんにちは。内田樹です。この本は寺脇研・前川喜平というお二人の元文科官僚と僕の教育をめぐる計三回の鼎談をまとめたものです。(中略) この対話を通読すると、最初は微妙な警戒心を持って、それぞれの「拠点」に踏みとどまっていた三人が、しだいにそこから踏み出して、同意できる項目を一つ一つ積み増ししながら、最終的に「共に戦える」立場を見出すという動的なプロセスが俯瞰できるのではないかと思います。 教育についてのかなりホットで生々しいトピック(森友・加計問題など)も扱っておりますので、ここで話しているコンテンツについては読者のみなさんにはもちろん関心を持っていただきたいと思いますけれども、それと同時にあるいはそれ以上に、立場を異にする人たちが少しずつ歩み寄って、時間をかけて合意形成をしてゆく対話のプロセスそのものを、とくに若い人たちには、読み取ってほしいと思います。 今の日本の言論状況は「エコーチェンバー」的にほとんど同じ意見を持つ人たちが集まって、そこにいない「敵」を罵倒して、内輪でどっと盛り上がるというかたちと、まったく歩み寄りの余地のない人たち同士が、互いに揚げ足を取ったり、無知をあげつらったり、話の腰を折ったりして一方が他方を「論破」して終わり……というかたちと、二つに収斂しているように僕には見えます。 でも、そんなことをいくらしても、知的にはまったく生産的ではありません。そんなところを身内で盛り上がっても、相手を「論破」してみても、自分のものの見方は少しも豊かにならないからです。そんなことを繰り返していれば、より頑迷で、より排他的な人間になるだけです。 それよりは、立場が違い、意見が違う人たちが、対話を通じて、それぞれの立場の違いの依って来るところを知り、相手の意見にも一理あることを認め、その上で、合意できるところを見出してゆく技術を身につける方が、自分自身を知的に開放するためにも、社会を住みやすいものにするためにもはるかに有効だと思います。 この鼎談で僕たちは「学校教育とは何か」という問いから始まって、しだいに「知性とは何か」というより広く深い問いに向かってゆきました。でも、そのような根源的な問いについては単一の答えがあるはずがありません。そういう問いをめぐっては、「最終的解決」をめざさず、終わりなき対話を忍耐づよく実践する他に僕たちにできることはないのではないかと思いました。 どうぞ最後までゆっくりお読みください。 |