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9784845114924 ノーノー・ボーイ | ||
¥2,700 | ||
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【内容】 戦争が自分の中のアメリカと日本を引き裂く。 徴兵を拒否した日系人のアイデンティティーの喪失と苦悩。国家、民族、国民同士が分断される時代に読み継がれるべきアメリカ文学。 全米で15万部超えのロングセラー 新訳刊行! |
【おすすめ】 「ノーノー・ボーイ(No-No Boy)」は、ジョン・オカダが著した最初で最後の小説である。1957年、東京とアメリカに拠点をもつチャールズ・イー・タトル出版から出された。当時の発行部数は1500部で増刷されることはなかった。オカダはその後次作にとりかかっていたようだが1971年、47歳のとき心臓発作で亡くなった。このままであれば作品も著者も忘れ去られてしまうところだった。ところが5年後の1976年、この本を“発見”し衝撃を受けたアジア系アメリカ人の若者たちの手により「ノーノー・ボーイ」は復刊される。これをシアトルにあるワシントン大学出版が引き継ぎ、以後少しずつ版を重ねアメリカを中心に読み継がれてきた。一昨年には38年ぶりに新たな序文を加えて新版が出された。 日本では1979年に英文学研究者の中山容氏の訳で晶文社から出版された。ボブ・ディランの全詩訳(片桐ユズル氏との共訳)などを残している中山氏は、当時京都の学生街にあったほんやら洞という若者文化の拠点のような喫茶店でこの本に偶然出合い「読みだしたらやめられなくなった」という。これが翻訳・出版のきっかけだった。日本語版も少しずつ版を重ねたが、2002年に増刷されたのを最後にやがて品切れ状態となり、近年では一部の図書館などでしか読むことはできなくなった。 日系アメリカ人が英語で書いた戦争直後のアメリカを舞台にした小説。主人公は日系アメリカ人二世だ。特殊と言えば特殊な作品と見られ、最初から興味の範囲外だと感じる人は少なくないかもしれない。しかし、そんな人間でいえば肩書のようなものなど気にせずに読んでみれば、この本には読む者の心を捉えるなにかがある。なぜなら「自分とは何者で、自分はどこへ向かって生きていったらいいのか」という誰もが一度は考える普遍的なテーマを掘り下げているからだ。 この小説が、日系アメリカ人の文学作品であるという前提は、極端にいえば、なんら本質とは関係がない。とはいうものの、物語の背景である日系アメリカ人と戦争との関係について、参考までに少し触れておきたい。 日本からアメリカへの移民は、明治維新前後に始まり、カリフォルニアなどアメリカ西海岸の諸州を中心に広がっていった。やがてアメリカは、日本からの移民を抑制し、土地の所有を禁止するなど排日政策をとるが、日系人の数は1940年にはアメリカ本土で約12万7000人、ハワイ地区で約15万7000人となった。この時代になると生活基盤も整い、また二世の代はアメリカ市民としてアメリカ社会に順応していた。それが1941(昭和16)年、日本軍によるパールハーバー攻撃で一変する。まず、アメリカ西海岸とハワイに住む日本人一世のなかで、“親日”であるとされた立場や職業にあるものなどが逮捕され、次に日本人・日系人に夜間外出禁止令が出された。 1942年2月、ルーズヴェルト大統領は行政命令第9066号に署名し、これによって日本人を祖先とする者は、「敵性外国人(人種)」だとして、約11万人が太平洋沿岸のワシントン、オレゴン、カリフォルニアの3州の西半分とアリゾナ州南部から立退きを命ぜられた。日本軍による西海岸への攻撃に対する懸念があるなか、日本人の血をひく者がこの地域にいることは、敵対行為に加担する可能性があると考えられたためである。その後自主的な立退きが無理とわかると7つの州に分かれた10ヵ所の収容所へ送られ隔離された。この措置に対して、アメリカ市民なのに日系人だからといって強制退去させられたり夜間外出を禁止されたりすることは憲法違反だなどとして、あえて逮捕されその不当性を法廷で争う行動にでた人もいた。戦後何十年もたってからこれらは憲法違反だったと判定されるが、当時最高裁は合憲だと判断した。 退去を命ぜられた人たちは、財産を二束三文で処分したりそのまま放置したり、誰かに預けたりして混乱のなか自宅をあとにした。収容所は、砂漠や荒野の真ん中に人工的につくられ、粗末なバラックが生活の場となった。収容された人のうち、3分の2はアメリカ市民である二世だった。しかし、アメリカ陸軍は、収容所内から志願兵を募るために、アメリカ市民かどうかは関係なく、17歳以上の全員約7万8000人を対象に国家への忠誠度を調べる質問状を出した。質問は33項目で、そのうちの2つが重要だった。 第27項は、徴兵年齢に達していた男子に「あなたはアメリカ合衆国の軍隊に入り、命ぜられたいかなる場所でも戦闘義務を果たしますか」と問い、続く第28項では、全収容者に対して「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、合衆国を外国や国内の敵対する力の攻撃から守り、また、日本国天皇をはじめいかなる外国政府・権力・組織に対しても忠誠を尽くしたり服従したりしないと誓えますか」と質した。 この質問は、日系アメリカ人たちにこの先どう生きていくべきなのか、そして、自分はいったい何者なのかと考えさせることになった。開戦直後からいち早く、自分たちはアメリカ人であり、そのことを理解してもらうために国家の方針に進んで従う姿勢を示した日系アメリカ市民連合(JACL)のような立場もあれば、二世でも親の方針で一時日本に帰され、日本の教育を受けた「帰米=キベイ」と呼ばれる人たちに多く見られたように、日本人である部分を捨てられない気持ちもあった。その結果、同じ日本人・日系人のなかでも激しい対立が起き、家族内でも意見がぶつかることがあった。 質問する側は、志願兵を募るための忠誠度を推し量るつもりでも、答える側の心理は複雑だった。イエスと言った理由もいくつかあり、アメリカのためという忠誠心もあれば、アメリカ人であることを示すため、あるいは収容所にいる親兄弟のためもあった。また、忠誠心からではなく収容所から出たいがためのイエスもある。ノーの理由も、日本を祖国と思い、祖国に対して弓を引くことはできないという思いもあれば、反対に、ほんとうはアメリカ市民として国家に忠誠を誓いたいが、国が市民としての自分の権利を剥奪するのは許せないという義憤も少なくなかった。第一次大戦でアメリカ陸軍に従軍した人の中にその気持ちがあったのはよく理解できるところだ。しかし、理由はともかく、この二つの質問に対して「No(ノー)」と答えたものが、「ノーノー・ボーイ」と呼ばれた。条件付きのノーを含め、こうした回答をしたのは全体の約11%であり、反米的とされカリフォルニアのトゥーリレイク収容所に集められた。 |