本の特送便 梅書房 > > 徐京植評論集Ⅰ 植民地主義の暴力「ことばの檻」から
9784874984413 徐京植評論集Ⅰ 植民地主義の暴力「ことばの檻」から | ||
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【内容】 在日の眼で「ことば」を通してえぐり出す、帝国主義国家群の「植民地支配責任」。 朝鮮・ユダヤ・パレスチナの民衆の声は、“宗主国的立場”に安住する人びとに届くのか――? 「韓国併合」から100年― 取り返しのつかない傷と歪みを残しながら、植民地主義はいまも継続し、増殖する。 在日朝鮮人の視点から「ことば」と「記憶」を論じつつ、きびしく問いかける「植民地支配責任」。その声は、“宗主国国民”に届くのか? 小松川事件、朴裕河、尹東柱、プリーモ・レーヴィ、ジャン・アメリー、パウル・ツェラーンなどを読み解きながら反植民地闘争を考える評論集。 |
【目次】 Ⅰ 植民地主義の暴力 ある在日朝鮮人の肖像 怪物の影 ──「小松川事件」と表象の暴力 植民地主義の図像 植民地主義の寓話 事件報道 あからさまな差別 強制送還のおどし 田中せつ子事件 小松川事件 帰国運動 「同じ朝鮮人」 和解という名の暴力──朴裕河『和解のために』批判 「国民主義」とは何か 植民地責任論 「道義的責任」というレトリック 「記憶のエスカレーション」 和解のために? 「和解という名の暴力」──その流通と消費 一枚の絵から何が読み取れるか Ⅱ ことばの檻 断絶の世紀の言語経験 ──レーヴィ、アメリー、そしてツェラーン ツェラーンとの出会い ツェラーンと国語イデオロギー 証人・人間・イタリア人──プリーモ・レーヴィの場合 母語からの追放──ジャン・アメリーの場合 言葉だけを母国として──パウル・ツェラーンの場合 母語という暴力──尹東柱を手がかりに考える 民族詩人 「序詩」の翻訳をめぐって──大村益夫の批判 伊吹郷の反論 翻訳をめぐる植民地的権力関係 在日朝鮮人が尹東柱を読むこと ディアスポラ詩人・尹東柱と母語 母語という暴力 ソウルで『由熙』を読む──李良枝とのニアミス ニアミスの歴史 強いられた二分法 出会いの挫折 人物造形の失敗 観念性の呪縛 母語と母国語の相克──在日朝鮮人の言語経験 国語ナショナリズム 「断絶の世紀」の言語経験 朝鮮語と日本語 在日朝鮮人の母国語(朝鮮語)経験 克服の道は? 母語の権利と母国語の権利 あるユートピア Ⅲ 記憶の闘い 「太陽の男たち」が問いかける、「私たち」とは誰か? 私たちにとっての「中東」とは 「太陽の男たち」 私とは誰か? ふたたび問う、「私たち」とは誰か? 記憶の闘い──東京とソウルで読むプリーモ・レーヴィ 二つの映画 マイノリティとしての共感 生還し証言する 証言の不可能性 プリーモ・レーヴィへの旅 記憶の闘い──日本の文脈 ソウルにて 道徳性をめぐる闘争──ホー・チミンと「革命的単純さ」 パリ ダイハンへの眼差し 山水画的簡潔さ 普遍主義の母国フランスで 清貧さ──闘いとしての あとがき |